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【アラベスク】  第17章 来し方の楔



第1節 天国 [3]




「わかるよ」
 鈴の面影を思い浮かべ、魁流はそっと呟いた。
 辛かったんだね。
 だが、そんな哀愁に浸っている暇など、魁流には無い。
 その日から、鈴のいない生活が始まる。魁流は、日に日に参っていった。
 鈴が生きていた頃は、鈴だけを見ていればよかった。鈴の姿さえ見ていれば、平和な世界だけを見ていられる。なぜならば、鈴の周囲には醜い諍い事など起こりようもなかったから。
 だが、鈴を失ってからは、どこを見ていればよいのかがわからない。どっちを向いても、世界は醜い事ばかり。
 学校では、くだらない噂が流れるようになった。魁流が鈴の自殺の事をマスコミに流すだとか、ネットに書き込むだとか、でなければ学校を訴えるだとか。
 なぜ僕が? そんな、鈴が最も嫌がるような諍いを、なんでわざわざ僕が起こす?
 周囲は、そんな魁流などお構いなし。
 なぜ世の中は、醜く争おうとする。唐草ハウスに来た、小窪智論という下級生だってそうだ。学校のやり方には納得できないと言っていた。僕を手伝いたいなどと言ってきた。ちょっと煽れば、本当に学校を訴えそうな勢いだった。
「唐渓を悪く言うのは止めた方がいい。これは君の保身の為に言う」
 そう言った僕の言葉にも、彼女は納得していないようだった。
 二度目には、霞流(かすばた)という人間も一緒に来た。鈴と言い争った桐井(きりい)愛華(まなか)という女子生徒の彼氏だと言っていた。
 彼は魁流に詫びたいと言った。
 そんな彼に対して、魁流には二つの感情が湧いた。
 最初は怒りだった。謝ってもらっても、鈴は生き返らない。
 憤りが魁流の身を包んだ。だがそれは、すぐに消えた。秋の風が、すべてを吹き飛ばした。

「愛華には、これ以上人を傷つけるような事をしてもらいたくはないんだ」

 彼は、僕と同じ人間なのかもしれない。
 魁流は霞流慎二に対して、同じ波長のようなものを感じた。見るからに優しそうで、愛華という名前を呼ぶ顔には、愛情が感じられた。
 傷つけるような事などしてもらいたくはないな。
 それは、争いを好まない自分や鈴の思いに通じる。
 彼はそれを、桐井愛華へ伝えると言っていた。

「君と織笠さんに謝るよう説得する。僕にできる事ならなんでもする」

 彼は、彼女である桐井愛華と、言い争う事になるのだろうか? なるのだろう。桐井という女性は、簡単に他人の言い分を受け入れるような人間では無いと思う。
 想い合う二人が対立する。
 考えただけで気が滅入る。
 やがて校内には広まるのだろうか? あの二人が対立しているという噂が。
 きっと、ちょっと言い争っただけでも大袈裟な噂となって広まるのだろう。根も葉もない噂だって、当たり前のように広まるのだから。
 聞きたくない。知りたくない。鈴はそんな事など望んではいない。
 離れよう。鈴の居ない世界に安らぎなど無い。鈴が居なくなってしまった今、この唐渓はもはや、自分の居場所ではなくなってしまったのだ。こんな醜い感情が渦巻いた場所になど居たって、鈴は喜んではくれない。
 霞流慎二が言っていた。彼は、好きな人の為になる事をすると。
 ならば自分もそうしよう。こんな場所からは離れるんだ。
 魁流は飛び出した。
 どこか、平和で穏やかな世界を見つけたい。だが、そんな世界は、どこにあるのだろう?
 魁流には見当もつかなかった。
 そもそも、醜い争いを避ける為に唐渓へ入ったのだ。中学に入学した時には穏やかで平和で、小学時代とは比べ物にならないくらい居心地の良い場所だと思っていた。それがいつからだろうか? 唐渓という選ばれた世界が、これほどまでに醜くなってしまったのは。
 醜くなったのだろうか? それとも、もともとからそのような世界であって、入学当初の自分が気付かなかっただけなのだろうか?
 どちらでもいい。今となっては、もうどうでもいい事だ。唐渓にはもはや自分の居場所が無いという事実に、違いはないのだから。
 ならばどこへ? どこへ行けばいい? いっその事、僕も鈴の後を追えばいいのだろうか?
 そんな彼に、声を掛けてきた人物が居た。
「何をそんなに苦しんでいるの?」
 老女は、穏やかな笑みでそう話しかけてきた。
「祈りなさい。そうすればすべてから救われる。祈っていれば、いずれ神が極楽へと導いてくださるわ」
「極楽?」
「何も争いごとの無い、平和で美しい穏やかな世界」
 極楽浄土。鈴は、そこへ行ったのだろうか?
 自分も行きたい。
「ダメよ。今はダメ。今のままでは極楽へは行けないわ」
「どうすれば?」
「もっと心を清らかにして。あなたの性根には、まだ悪が潜んでいる」
 身を清める為、祈りを捧げる為の高価な水やら布やらを勧められる。
 だが、家を飛び出してきた魁流には、手持ち金はほとんど無い。
「だったら、他の人をお救いなさい。自分だけ救われようとしてはダメよ。多くの人に、安らぎと幸せを与えてあげなければ」
 そうだ。自分だけ救われようなんて、そんな醜い心ではダメだ。きっと、だから僕は醜いものばかりを見てしまうんだ。こんな事では駄目だ。穏やかな極楽へは行けない。
 鈴の居る世界へは行けない。
 魁流は、布教活動に身を投じるようになった。







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